「人は最善を尽くしてサバイバルしている。それが周りからどう見えようと、ご本人でさえ満足できないものだっとしても、そうなのだ、ということが始まりです。」
“面接が上手になるための秘訣(その2)”.大学発ベンチャーメンタリング研究所.堀之内高久著,
(参照 2020-04-21)
最近は、この言葉をカウンセリング中によく思い出します。
カウンセリングをしていると、
ついついクライアントのダメな部分ばかりが見えてしまう時があります。
「ここも問題だな。」
「ここを改善した方がいいな。」
といったような考えが頭をよぎります。
すると”最善を尽くしている”のではなく、
”何とかしなくてはいけない”とか、
”改善する必要がある”といったように相手を捉えます。
そうするとカウンセリングは大抵上手くいきません。
なぜならそのように見ると、
クライアントが頑張っているところに目が行きづらくなりますし、
”何とかしなくてはいけない対象”とみた時点で、
クライアントには力がないと考えていますし、
”改善が必要”と捉えた時点で、
修正しなければいけない。
直さなければいけない。
つまりクライアントは今のままではダメである。
という前提が援助に入りがちだからです。
冒頭の言葉は、これらを戒めてくれますし、
何よりもクライアントの長所を見ようということでもなく、
頑張っている所を見ましょうということでもなく、
どんな状況でも、
どんな状態でも、
それはクライアントが最善を尽くした結果であると、
そう”見るのだ”と言っているのです。
つまりそう見ようとするのではなく、
そうなのだと捉えるのだと、
そのように言っているのです。
(※あくまで個人的な解釈です。)
「見ようとする」のと、
「そうなのだと見る」のとでは雲泥の差があるように思います。
見ようとするという言葉には、
挑戦する気持ちも含まれますが、
そこには出来ないかもしれないという可能性も含まれますし、
「~しようとする」という言葉は、
意欲は出すが行動を伴わない場合も多くありますし、
出来なかった時に逃げ道も用意できます。
したがって「~しようとする。」という言葉は、
曖昧さを含んでいる言葉なのです。
一方で「そうなのだと見る」ということは、
そういうものだと”決める”ということです。
ここには曖昧さは含まれません。
前提として、
そういうものであると決める。
そこを見ようと決めるということです。
つまり覚悟を持つということです。
そして、人が何かを決めるには、ある力がいります。
それは、引用したHPの記事にも書いてありますが、
”意思”の力を持つことです。
意志とは自分が考えたことを貫くということです。
自分が決めたことや、望む方向へと心を向けるということです。
つまり自分の心を積極的に望む方に、決めた方向に傾けるということです。
そこには能動性が含まれるのです。
つまり、たとえどんなクライアントに出会ったとしても、
「人はみんな、どんな状況でも、最善を尽くしてサバイバルしているんだ。」
とそう見る意志を持つ。
人の強みを、長所を、その姿勢を見る意志を持つ。
そしてこの意志を持つということは、
「信じる」ことにも似ています。
信じるということは、
「いや、違うかもしれない。いやいや、でも頑張っている。最善を尽くしているんだ。」
そういう違うかもしれない可能性が出てきた時でも、
そうである自分が望む方を向く力です。
時にクライアントと接していると、
最悪な状況にしか見えない時があります。
最善を尽くしているなんて思えない時も正直にお伝えすると、あります。
それもちょっとではない時も、あります。
それでも、揺らぎながらも、
なんでもやっぱりそうなんだと、
そうであるんだと、
僕は何度でも思いたいようです。
だから、
僕たちは、
全力で生きているんだ。
だから僕たちは精一杯なんだ。
どんな形だって。
どんな人だって。
そこから、
そこを起点に援助をしたいと、
強く思い、
意志を鍛えています。
時にぐらぐら揺れながら。
その前提を始まりに、
人と関わっていきたい。
あ、でも、
「いきたい。」という言葉を使ってるあたり、
僕はまだまだなようです。(笑)
