最近思うことがあります。
話を聞いてある程度聞けるようになったら、
さらにその先(自らの限界を破る)に行くには、
当然ながら自分で考えることが本当に大切だと。
ある程度聞けるようになったら、
教わったことをただやるのではなく、
自分で考えて、
自分なりの答えと共に相手と向き合うことが必要になってきます。
例えば、この場面では「~したいんですね。」というフィードバックではなく、
「~したいとも、○○したいとも思っているんですね。という両方の気持ちを受容する言葉がけが大切ですよ。」
と言われたとしましょう。
すると教わった直後は、
人の気持ちは複数あるから葛藤の一方の気持ちだけでなく、
もう一方も受容する言葉を掛けることが大切なんだ。
と気づき、次回以降それをすることが増えてきますが、
それだけでは上手くいかないことが当然出てきます。
つまり、「両方の感情を受容」するよりも、
「~したい気持ちがあって当然ですよね。」
という相手の気持ちを保証するコミュニケーションが大切になったり、
「~したい気持ちがあるけれど、それをすると○○が起こりそうで怖いんですね。」
といったような、
したい気持ちの裏にある恐れを受容する言葉を掛けたりすることの方が大切な場合など、
別の言葉がけの方が有効な場面が当然出てくるのです。
ですから言葉がけだけを身に付けても、
あまり聞くことは上手くならないのです。
そこで大切になってくることは、
次のような視点です。
どのような点に着目したらそういった言葉がけが出てくるのか?
相手のどの言語・非言語に着目したらその言葉が出てくるのか?
その時に、沢山ある中の気持ちの中で、
なぜその部分に今このタイミングで着目したのか?
非言語に気づいたのだとしたら、
どのようにすればそのような観察力を身に付けることが出来るのか?
聞く時に意識はどこに傾けているのか?
どのようにしたらそのように相手の枠組み(思考や捉え方)を捉えることが出来るのか?
自分が着目している点と、
相手が着目している点の違いは何か?
どういうプロセスでそういった枠組みや気持ちに気づいたのか?
どういう意図でその言葉がけをしたのか?
どういう点に気を付けてそういった言葉を掛けたのか?
といったような視点です。
こういった視点を持って、
結果として出ている表現(言葉がけや技術)を学ぶのではなく、
その裏に隠されたプロセスや視点を身に付けて、
しっかりと自分なりに考えられるようにしていく。
そういったことがある程度聞くことを学んだら
必要になってきます。
勿論、このプロセスは一辺倒にはいきません。
地道にコツコツとやっていくしかありませんが、
取り組むだけの価値があるものです。
僕自身も今そのプロセスの途中です。
でも、ここを突破しないと、
結局僕はそこどまりです。(どこ。汗)
聞くを学ぶ。
これは、とっても奥深いプロセスです。
どこまでその世界にダイブするかは、
人それぞれですが、
僕たちが今学んでいることは、
誰かが深くダイブしたその先に得たものであることは確かです。
先人たちは、きっとこのようなプロセスを通して、
自分なりに考えて、
言葉を生み出してきたのだと思います。
その言葉や技術を使おうとする以上、
僕たちはその背景にも思いを馳せていくことが大切であり、
その先人たちの視点を学びつつ、
自分の目で相手を見れるようになり、
自分の言葉を相手に届け、
自分で考え感じて関われるようになることが、
とっても大切だと思うのです。
教わるということは、教わったことを身に付けるだけでなく、
そういった側面もあるんじゃないかとそのように思うのです。
教わるということは、自律への一歩なのですから。