対等な関係を僕たちは知らず知らずにお互いに対して望みます。
だからこそ、私だけが我慢していると感じる状況や、
自分だけが負担が強いという状況や、
何かを自分だけが多く行動をしている状況というのは、
自分だけが「損」をしているようで不快に感じるのです。
夫婦関係・恋愛関係・家族関係・友人関係などにおいても
「なんで自分だけこんなにしなければいけないんだ。」
「なんで自分だけ食器を洗わなければいけないんだ。」
「なんで自分だけ我慢しなければいけないんだ。」
といったような気持ちが不満を生み出し、
自分だけが不満を抱えているということに対して、
「損」をしていると感じることが多くなります。
つまり「自分が折れてあげている」という気持ちが強まるわけです。
すると、その「損」を取り戻そうとして、
権力争いになることがあります。
なぜそうなるかというと、
パワーバランスを取り戻したいのです。
損を平等に均等にしたいのです。
だからこそ、「それくらいしてよ。」という怒りを出して、
その損を取り戻そうとするのです。
ただ、それは相手も実は同じです。
相手も相手なりに我慢してあげていること、
折れてあげていることがあるのです。
だからこそ、相手の立場だけを主張されると、
「俺だって!私だって!こんなに我慢しているのに何なのよ!」
といように感じて喧嘩になってしまうのです。
僕たちはお互いに対等な関係を期待していますが、
そもそもが常に100%対等というのはあり得ないのですし、
そもそも対応というのは状況と配分の問題です。
ある状況では、Aさんがある程度我慢してくれているが、
Bさんはその状況においてはあまあまり我慢していない。
一方で違う状況においては、
Bさんがある程度我慢してくれているが、
Aさんはその状況においてはあまり我慢していない。
さらにある状況において、
Aさんは例えば意見を言わないで尊重してくれていて(折れてくれている)、
Bさんは意見を尊重されて伸び伸びやっているように見えるかもしれませんが、
実はAさんの気持ちも踏まえた意見を言ってくれているという点で、
自分の意見だけを通しているわけじゃないという点で折れてくれているかもしれません。
このように細かく見ていくと、
お互いに折れていることがあり、
状況によってそれぞれがそれぞれなりの比率で、
しないであげるという愛情表現をしているのです。
我慢も同じです。
我慢も折れることと同様ですから、
我慢してあげていることの愛情表現なのです。
このように僕たちは、それぞれが我慢をしたり、
それぞれがしないであげることによる愛情表現をしており、
それが同じ比率で、同じ分量であることを望み、
それこそが「平等」であると捉えるわけです。
ただ、これまで見てきたように、
対等というのは、すべてがイコールという性質のものではないということです。
それはあくまで、配分の問題だということなのです。
ですから、自分だけが我慢しているといった場合に、
お互いに我慢していることや、しないであげていることを書き出してみる。
それをお互いに表現しあってみると、
そこにある優しさや思いやり、
お互いに様々な場面でそれぞれなりに実に我慢してきたことや、
しないであげていた配慮が多かったことに気づくでしょう。
すると、相手もこんなに我慢していたのだと気づくでしょうし、
その相手のしないでいてくれていたことや、我慢してくれていたことの中に、
実は私はそこまで望んでいないし、そこは我慢しないでいて欲しいというこも
見つかるものです。
もしそれが見つかった場合は、相手にあった愛情表現に変えていくことが必要でしょうし、
そんな話し合いの場も持てるのではないでしょうか。
このようにお互いの「してあげている愛情表現」だけでなく、
「しないであげることへの愛情表現」を“お互いに”理解しあうことがとても大切なのです。