僕たちは相手の話しを当たり前に聞く傾向がある。
「彼に振られて辛いのは当たり前。」
「良いことがあって喜ぶのが当たり前。」
「責任感が強いのが当たり前。」
「自主性があることが当たり前。」
「怒るのが当たり前。」
「悲しむのが当たり前。」
「楽しいことが当たり前。」
そんないろんな当たり前を僕たちは持っています。
だから僕たちは話を聞く時に、
相手の話をパターンに当てはめて理解し、
一般化をして聞いていく傾向があります。
一般化とは相手の話しを○○というものは、
大体そんなものねという大枠に当てはめて理解することです。
これがあるから相手を理解できるわけですが、
それ故に大枠の影にある細かいところを聞き逃してしまう。
そこにその人となりがあることも忘れてしまって…。
○○の出来事があったから、悲しむ。
というのは、当然何だろうか?
例えば、そこにどれだけの思いが向けられていて、
どれだけの期待や願いが込められていたのか、
きちんと理解しているだろうか?
その悲しみの背景には、
どんな大切にしたかった未来があったのか、
どんなに大切にしたかった価値観があったのか、
きちんと理解しただろうか?
「彼は、自主性があるからね。」
その自主性の裏に隠された、
自主性があるが故に人とぶつかり、苦しみ。
その自主性があるが故に、自らの選択や行動を
誰のせいにもできず、多くの人がするよりも強く後悔したこと。
悔やんだこと。
そんなところを僕たちはきちんと理解しただろうか?
自主性を身につけてきた裏には、
自主性がなければ、自ら率先して動かなければ
誰も力になってくれず、
自分の力で何とかしなければいけなかった…。
そんな過去が隠れていたかもしれない。
はたまた、昔は受け身であったが、
今は自主的であろうとして頑張っているのかもしれない。
そしてもしかしたら、小さい頃からほめられて、
自分で選択する喜びや、決める喜びを味わってきたのかもしれない。
僕たちは、どれくらい相手の話に思いを馳せているだろう?
僕たちは、どれくらい相手の話しに思いを馳せられるだろう?
「当たり前」なんてないこの世の中。
でも、僕たちはやっぱり「当たり前」に話を聞いてしまう。
でも、ただ、
ほんのちょっと立ち止まって、
こう考えみよう。
「もし、それが当たり前じゃなかったら…?」
「だとしたらどう考える?」
と、そう自分に問いかけてみよう。
当たり前なんて、当たり前にないのだから。