すべき思考

さて、前回の記事はこちらです。

 

前回は、「すべき思考」についてお話をしていき、

すべき思考の方の目標設定は、

何かを得たいという目的志向のものではなく、

何かを避けたいという回避志向のものであるとお話をしました。

 

そして回避志向である為に、

そのすべき目標は、最低限達成すべきことであり、

誰かからの意見などを取り入れたものである為、

達成したとしてもあまり嬉しくはありません。

 

多少ほっとはするとは思いますが喜ぶことはありません。

つまりべき思考で頑張って頑張っても、

回避的な目標であることが多く、

その基準は最低限そこまでは行くべきものである為に、

達成したとしても満足はできないのです。

 

ここまで読んでいると、

べき思考は”悪”であるというように感じますよね。

僕自身もそのように感じていました。

 

その為、認知行動療法でするところの認知の歪みの修正を行おうとしていたのでした。

 

ただ、すべき思考が強い方というのは、

すべきが実に沢山あります。

 

「ですからその一つ一つをすべてやっていくのは、

とても大変じゃないですか?」と聞かれて「確かに。」と思ったのでした。

 

また、こうも言われました。

「すべき思考を問題として考えると修正するだけで終わってしまいます。」

「そうではなくて、すべき思考を問題として捉えずに発達の一つのステップとして捉えたらどうでしょう?」と。

「?????」

僕の頭の中では、「?」が浮かびました。

 

疑問が浮かんでいる僕の表情を見てか、

原田先生は、目の前のホワイトボードに次のようなことを書いてくれました。

 

それがこれです。

⓪子供(衝動で生きる)

①社会的適応(ルールを守る段階)

②所属(社会の期待に応える)

③成長(出来る喜び)

④自律(自主的に生きる)

⓪・①は、フロイトの理論でいう所の超自我で社会に適応する部分です。

超自我とは、フロイトが構造論の中で唱えた心的装置の内の一つです。

このように書くと少しややこしいですが、

簡単に説明しますね。

 

心に「装置」を想定し、その装置には、

超自我・自我・イドの3つがあると考えたのです。

 

超自我は、親や世間一般の常識や価値観を取り入れたもので、

イドという根源的な欲求や衝動を抑制・禁止します。

 

自我は、超自我とイドのバランスを調整してくれたり、
(葛藤:欲求を出したいイドとダメだという超自我)

イドの根源的な欲求を現実に合う形で満たせるように調整する役割です。

 

イドは、欲求や衝動をありのままに表現しようとし、

それを満たすことで快楽を得ようとするものです。

 

余計ややこしくなったらすみません。(笑)

 

さて、なぜ今これを説明したかというと、

すべき思考というのは、フロイトの理論でいう超自我の禁止や抑制する機能だからです。

 

この超自我で僕たちは、この世界に最初は適応しようとするのです。

学校や職場では、みんなが最低限のルールや常識を共有しています。

 

理由は最初は分からないけれど、

親に言われたから、みんながそうしているからそうすべきなのだろうと、

行動を合わせたり、そのやり方や知識を身につけていきます。

 

そうやって最低限すべきことを身につけていくのです。

社会人になってもこれは同じです。

 

メールの出し方からアポイントの取り方、名刺交換の仕方など、

社会人としてすべきことが沢山ありますよね。

 

それを最低限身に着けていないと、

非常識とされて相手にされないこともありますから、

身に着けるべきものというのは沢山あるわけです。

 

そしてそれら最低限すべきことが出来るようになってくると、

社会において自分に期待されていることが理解できるようになり、

誰かに言われたからとかこうすべきだからこうするという、

外的な要因から強いられて行動をするのではなく、

相手が求めているものの為に、

自らの意思でこうすべきだと感じるからこそ、

その行動をしていきます。

 

これは超自我の機能ではなく、自我の大人としての機能です。

超自我による取り入れたものではなく、

自らの意思でやっていくのです。

 

また、これは動機付け理論でいう所の内発的動機付けに基づいた行動になります。

 

動機づけには、大きく分けて内発的動機づけと外発的動機づけの二つがあり、

例えば仕事においては、

給料アップや昇進などの外的報酬によって動機づけを高めることがありますが、

これは外発的動機づけと呼ばれます。

一方で、自らの興味や関心・意欲に基づき行動する動機付けを内発的動機づけと呼びます。

 

②の状態は、自らの意思で期待されているだろうことをしていく、

且つそれを行う理由が外にあるのではなく、

内側にあるという点で①とは違うのです。

 

そして、僕たちはすべきことの土台の上で一般的な社会とつながり、

期待されていることが理解できるようになり、

期待に応え、相手が喜んでくれる喜びを味わい、

求められている喜びも味わっていきます。

 

そしてその最低限しなければいけないことの土台の上に

技術や能力が身についていき、出来ることが増えていくのです。

さらに、出来ることが増えていくと、

こんなことをやってみたい・これが出来るかもしれないという

自らの意思(will)が育っていきます。

するとすると、成長する喜びを味わう③へと向かい、

自主的に生きる④へと向かっていくというわけです。

 

一通り説明を終えると原田先生は、

「「すべき思考」というのは、発達の段階でとても大切であり、

これを十分に身につけてきたのだから、

もうその段階は十分だから次のステップへといくタイミングなのだと、

そのように見ることはできませんか?」

 

と僕に語りかけてくれました。

 

「確かに…。」とそのように感じました。

 

①の社会にある程度適応することは大切ですし、

その為には、すべき思考はとても役に立ちます。

 

ただ、そのすべきことを無目的に繰り返し、

フロイトでいう所の超自我の親や世間一般の常識を過度に取り入れ、

それを行動基準とすると苦しみを生んでしまう。

 

だからある程度の段階で、外側に基準を置くのではなく、

内側に基準を置きなおし、

自分の意思で「したいこと」「やってみたいこと」「好きなこと」を

少しずつやっていくことで、

超自我で生きるのではなく、

自我で生きていく。

 

ただ、自分が好きなことや自分が大切にしたいことを明確にする為にも

ある程度の価値観や常識やすべきことを取り入れていくことは大切なのだと、

そのようにも感じます。

 

というのも、そいう外的なもののおかげで、

自分の内的なものが際立つからです。

 

彫刻家が木で作品を埋める時に、

余計な部分を削ることから始めるように、

身につけてきた余計な部分を削っていくと、

自分という人間が浮き彫りになってきます。

 

不必要というものはなく、

このすべきというものも同じように、

自分を形作り、成長していく過程で大切なのだなと、

そのようなことを感じます。

 

そして「すべき」の反対は「したい」です。

 

すべきを沢山してきたら、今度は反対側の「したい」を育み、

成長する喜びや、

誰かの為に生きるのではなく、

自分の為に生きていくことや、

自分がしたいと思えることを、

自分の為にしていくことが、

大切なのだなと、

そのようなことを教えて頂きました。

 

ちなみにこのしたいことは、

先に説明した心的装置のイド(根源的欲求)をそのまま表現することではありません。

それでは、子供と何ら変わりはありません。

 

自分の為になることを、

自分の意志で行っていくことです。

 

好きなことの中にも、

してみたいことの中にも、

本当は自分の為にならないことも沢山ありますからね。

 

さて、少し話はずれましたが、

「べき思考」は、ダメなわけではなく、

発達の過程で必要なものであり、

それを十分身に着けてきたら、

今度はその逆の自分の為になることをしていく、

例えば、今の状況の中で楽しめることを探したり、

好きなものを見つけたり、

してみたいと少しでも思えるものをリストアップしてみたり、

そういったことも大切なのだとそんなことを学んだ一日でした。

・JCA カウンセリング・傾聴スクール 講師 
・カウンセリングルームこころ音 カウンセラー
元引きこもりのカウンセラー。現在は講師として、毎週(土)講義を行う。
都内のクリニックでカウンセリングも行っている。