「技術は、心がこもっているべきである。」
というのが僕なりの信念です。
でも、技術に心を宿すのは、
そんなに簡単なものではないと感じますし、
結構な苦労と心の痛みが伴うなとも感じています。
「あれが出来なかった。」
「もっとこの時にこんな言葉を掛けていれば。」
「こんな風に聞けていれば、そんな印象を与えずにすんだのに。」
「こういう直接的な言い方ではなく、間接的な言い方を身に付けられれば。」
こんな後悔とそれをもとに反省し、
「次こそは…。」と挽回しようと努力する過程や、
「もっとこうしたら、よりクライアントに寄り添うことが出来る」
というより良くしようとする姿勢が、
技術を身に付けてさせて、
そういった自分の心とも向き合っていくことが、
自分の在り方にも繋がってくるのだと思います。
そして、技術を身に付けていく過程で、
クライアントに沢山気づけるようになって、
色々な見方も手にする過程で、
今まで見えなかった相手の苦しみや強みが見えてくる。
そうしていくうちに思いやりがさらに出てくる。
でも、相手に気づく量が増えてくると、
気づかなければよかったことにも気づけるようになり、
苦しみが増えてくる部分もあり、
自分の苦しみにも気づけるようになる。
そんな過程で、
相手と向き合いながら、
自分の苦しみとも向き合っていく。
そしてそれが自分の在り方につながり、
それが心のこもった言葉になり、
心のこもった技術へとつながっていく。
心を込める。
それは一筋縄にはいかないんだと思います。
よく熟練者は、
「技術ではなく在り方だ。」といったことを言いますし、
「質問の技術や変化の技術」はあまり教えてくれない場合もあります。
でも、技術はやはり大事です。
僕はどちらかというと、
カウンセリングは技術だと思っていましたから、
技術からこの世界に入りました。
でも、技術だけから入ると在り方でやはり躓きます。
それは、在り方から入っても、
技術がないとその思いを形にできず躓くのと同じです。
両輪がやっぱり大事です。
でも技術を学ぶ過程は、
僕にとっては険しい道で、
そんな折、先生からこんな言葉をもらいました。
「自分を許すタイミングはいつかくると思いますし、
自分を許した時に沢山の技術を自由に使えるようになると思います。」
「でも、その時にどれだけ幅広く技術が使えるかというのは、
その許すまでの時間に出来ないからこそ懸命に磨いてきた努力の量と、
身に付けてきた量に比例します。」
「自分を許すのが早いと、その技術を身に付ける時間が少なくなり、
使えるものが少なくなります。
そして、許しが出てくると技術の伸びがかなり緩やかになってしまいます。」
「まだ、自分を許さない方がいいのでは?」
という言葉でした。
いやはや、その時はそういうものかと感じましたが、
この記事を書いてみると、
心に何故だか染み入ります。
許す。
というのはとても大切に考えられますが、
許さないからこそできることってありますし、
ある一定量で「許す」ことを覚えてしまったら、
自分が望むところまでいけないこともあるんだと、
痛感しました。
許さない。
自分を許さないでいる。
頑張りたいことは頑張る。
成長する。
手に入れるその日まで、
習得するその日まで、
出来ない自分と向き合って、
今は悔しがっていこうじゃないかと、
そんなことを感じた午後の日でした。
