カウンセリングをしていると、
ごく稀にどういうわけか分かりませんが、
もう人と人とのコミュニケーションというか、
技術とか知識とか立場とか、
そういったことをすべて取っ払って、
裸一貫で人として目の前の相談しに来てくれた相手と
対峙していることに気づくことがあります。
もうそこは、人間力というか人としての底力というか、
何かもうカウンセリングとは別次元のものが試されているかのような、
そんなような感覚に襲われ、
目の前の必死で来ている方と、
それこそカウンセラーも必死で向かい会う瞬間があるのです。
その時は、もうただただ必死です。
そんな時、僕は相手の心の中にある
ある部分に訴えかけます。
それは、いわゆる善なる部分です。
そして、それを相手が何と返答しようと、
そこに対して言葉を掛けていきます。
そう、もうその瞬間は本当におせっかいというか、
押しつけがましくなります。
それがいいか悪いかは置いておいて、
僕はそのような時に、
そのようなモードになります。
先日も、、、
「そんなに苦しんで迄仕事に行きたいのは、
その仕事へと向かわせるのは、あの小さなころの思いを今も持っているからですよね。」
「あの純粋に○○の世界に憧れたその気持ちを今も持っているからですよね。」
「諦めずに、今もそんなになりながらも、まだちゃんと持っているからですよね。」
「自分を諦めてないからですよね。」
といったことを相手に訴えかけました。
このメッセージに対して確かに泣きながら頷いてくれはしましたが、
それが効果があったのかは、正直わかりません。
僕の中で、自分の気持ちの中の肯定的な大切な思いに触れれば、
少しでも、その瞬間だけでも、
心が休まる瞬間が訪れるのではないかと、
その気持ちを思い出せば、
自分の中には、苦しさだけじゃないとそう思えれば、
人は変わることが出来るのではないかと、
そんな淡い期待があるのです。
でも、触れたとしてもたった一時。
それがどのように心の中で育まれていくのかの方がもっとずっと大切で、
その人の中にあるものを信じるのも大切だけれど、
きっと他にも大切なことがあるんだろなと、
最近痛感するのです。
それが何かはまだはっきりは見えていないけれど、
ぼんやりと僕の中に残っています。
それがいつか形になった時、
今よりも少しだけ、
クライアントにとっていい援助が出来るようになるんじゃないかと、
そんなことを祈って、
今は精進しています。
思いも大切だけど、
それをどう表現していくのか、
その術を学んでいくのもやはりずっと大切だと思うのでした。
